板谷峠と4つのスイッチバック
第一章「はじめに」
板谷峠・・・・誰もが聞いたことがある峠の名前だろう。
日本の中でも指折りの難所である。
1899年に開業して以来赤石・板谷・峠・大沢駅の4段スイッチバックとして知られてきた。
1990年……山形新幹線開業。これにより4段スイッチバックは過去の物となってしまった。
この4段スイッチバックの中でも有名な板谷・峠駅のスイッチバック跡を見に行くことにした。
第二章「最初の一歩」
まだ、5月11日の朝日が完全に出てきていない…
そんな中、布団からもぞもぞと起き出し旅の支度をする「はつかり」がいた。
愛用のリュックを背負い、駅を目指した。
仙台駅に着くと私の相棒ともいえる719系が出発を待っていた。
E721は大量に配備されているはずにもかかわらず、なぜか719系なのだ。
そんなことを思いつつ、719系の2人がけボックスシートに座る。
6;04発車。いつも見慣れた町が薄暗いベールに包まれている。
朝早くは貨物が多く、よく右側を轟音を立てて貨物が通過していった。
長町・南仙台・名取と次々に仙台のベットタウンを通過していく。
4時から起きてる私はあまりの睡魔に負けてしまった。
私が起きると、もう伊達だった。7時を回ったところだった。
脇を見ると福島交通局の電車が併走していた。
「ご乗車ありがとうございました。福島、福島です。お忘れ物ないよう〜」
そんなアナウンスをよそに私は福島のホームへと降り立った。
南に着たのにもかかわらず、息を吐くとまだ白かった。
いそいそと歩く会社員や学生が改札に向かう。
まだここには賑やかさがある。私がこれから行くところは人気のほとんどない所なのだ。
ここで人の温かみを心にしまい、これからいく板谷峠でも何とかしようと思った。
なんせ18年前廃止されたところに行くのだ。完全に自然に戻っているに違いない。
そんな思いを胸に米沢行き8:08発の電車を目指した。
……まだ発車には時間がある。
そう思いつつ、1番線ホームにいる電車にシャッターを切る。
すると2番線ホームで時刻表を見つけた。
今の東北本線の寝台特急は「カシオペア」「北斗星」だけだ。
しかし、時刻表の4分の1を使いわざわざ寝台特急の説明が書かれていた。
まだここでは東北の寝台特急の黄金時代を感じることができる。
仙台ではもう完全に寝台特急の影が薄くなってしまった。
毎日何事もないように通勤電車が発着している。
東北最大都市の運命なのだろうか?
やはり特急が年々少なくなってきている。
第三章「山形線」
そんなことを思っているとあぶくま急行の電車が入線してきた。
何枚か写真を撮ると私が乗る電車の発車10分前になっていた。
余裕を持った方がいいと思いホームまで歩く。
しかし、まだ列車には誰も乗っていなかった。
ローカル線の香りをいきなり感じることができた。
列車に一人も乗っていないというのはちょっとさびしい気もした。
しかし、5分前にはちょびちょびと乗車する人が出てきた。
人が出てきたなと思うと発車のアナウンスがなった。
8:08出発…思った以上にゆれが少ない。
これも標準軌のおかげかもしれない。
どんどん加速すると右にカーブし山に進行方向を向ける。
同時に高架橋で新幹線の線路が合流してきた。
それを横目に巨大な新幹線がゆっくり右側を通過していった。
新幹線なわりに70キロも出ていなかっただろう。
この路線では新幹線という名前ではなく、特急という名前が適切だとはっきりと理解した。
笹木野を過ぎると急にスピードが落ちてくる。
私が見るともう既に17‰をさしている。
まだ一駅しかたってないのにもうこんな勾配だ。
これからのたびが楽しみだ。庭坂を越えると一気に電車の本数が少なくなる。
同時に住宅がほとんどなくなり山に電車は吸い込まれていった。
第四章「廃線」
山の中を進んでいく電車はいっそうモーター音を高くし進んでいく。
この辺りから20‰の勾配がちょびちょび目についた。
赤石に着いた。
周りはまったく何もない。森だけが目に入る。
…奥にトンネルが見えた。スイッチバックの跡だろうか?
みれば見れるほどいろいろな疑問が浮いてくる。
それもつかの間、列車は赤石を出発した。
次は私が降りる板谷だ。
カメラをバックの中に押し込む。
すると急に車内が薄暗くなる。
トンネルに入ったと思ったが、正体はスノーシェルターだったのだ。
豪雪地帯特有の施設を見て驚いた。
仙台ではスノーシェルターどころかトンネルすらない。
関心しているとアナウンスが板谷到着を告げた。
ドアを開け、ホームに降り立つ。私しか降りなかった。
この近くには民家があるはずなのだが、この辺の人は使わないのだろうか?
そんなことを思いつつ廃線跡を歩き始めた。
もともと板谷駅から廃線が延びているのですぐ分かった。
その脇をテクテク歩く。すると、すぐに旧駅舎が現れた。
随分草でやられているが駅の原型は残していた。
ゆっくりと駅舎の方へ歩いていく。
それと同時に50系が止まっている様子もが目に出てきた。
急ぐはずもないのに急ぎ足になる。
旧ホームに立ってみる。
錆びているものの、まだレールは存在した。
しかし、レールは草むらにつながっていた。
前夜は雨が降ったために草の上には水滴がある。
しかし、それではここに着た意味がないと私は思った。
仕方ないが、ここはいくしかないと思い、草むらに入った。
ズボンが水滴を吸い込み冷たいズボンが肌に触る。
それを不快に思いながらも進んだ。
……それを見た瞬間私は立ち止まった。
そう、駅名板が残っていたのである。
微かであるが「いたや」という字も読めなくはない。
そのときの気持ちは言葉に表せなかった。
廃止され、列車を待つという仕事を終えた駅がひそかに自分の存在を叫んでいるのだ。
感動した。大げさかもしれないが感動したとしか言いようがない。
何枚かカメラに収めるとそれ以上の収穫を求め先に進んだ。
しかし、進むほど草は生い茂る。ズボンもどろどろになり始めた。
あまりの草に進めなくなってしまった。
しょうがないので迂回して進むことにした。
迂回すると意外とラクに進めたが、やはり線路が気になる。
線路を横目に進む。そのうちに線路が途切れ草もなくなる。
そこから敷地に入り、また線路の散策を始めた。
水路の脇は足場がよかったのでそこを歩くことにした。
信号機が自然に飲み込まれながらも立っていた。
しかし、もう二度と光が灯ることはないだろう。
しかし驚いたのはその後にあった。
なんと枕木を突き破って松の木が立派な葉をつけていたのである。
あまりの生命力に自然のすばらしさを感じたがその反面、この大切なこの廃線を残したいという思いが交差し複雑な思いになった。
それから20分ほど廃線を歩き続けた。
その間、ポイントなどしっかりスイッチバック駅だったことを知らせてくれた。
これからもこの板谷は残っていてほしいがあと10年もすれば完全になくなってしまうだろう。
私はここに二度とこれないかもしれない。そんなことを思いつつ、廃線を後にした。
第五章「板谷峠」
板谷を横目に私は無謀な挑戦を始めようとしていた。
行き当たりばったりだった。
そう、板谷駅・峠駅の間を歩くのだ。
いくら電車に乗っても歩いてみないと分からない。
と前日に思った私は地図片手に板谷峠に臨んだ。
意外と標識は整備されており、「峠駅 5.3キロ」と表示してあった。
思った以上に距離はなかったので安心したが相手は数々の列車が苦戦した板谷峠だ。
しかも、GPSなどそんなものは無く、350mlのお茶と地図のみだ。
こんなもので歩きとおせるだろうか?そんな不安が頭を横切る。
しかし、今進まなければここで5時間もいることになるのだ。
5分ほど迷ったが結局は行くことにした。
別に迷っても、一本道なのだ。
そう簡単には遭難なんてしないだろう。
歩き始めるといきなりとてもきつい坂が現れる。
それと同時に板谷のスノーシェルターが木々で見え隠れするようになった。
歩きつつ最後に一度駅を見るともう歩くのに夢中になり、気づくともう見えなくなっていた。
まだ5分も歩いてないのに民家が見えなくなった。
もう目に入るのはガードレールと痛んだアスファルトそして森だけだ。
勾配もいっそうきつくなる。
少しお茶を飲みさらに進み進もうとするが勾配で思うように早く進めない。
15分ぐらい立ってようやく家族ずれの一台の車を見た。
1人で板谷峠に挑んでいる私の姿を見て、変な顔をしてとおり過ぎ去っていったが、私はいたって真剣に峠を登っていた。
その家族と峠駅で話をするとは思ってなかった。歩き続けて30分。まったく標識が見当たらない。
途中に小さいながらも交差点があるはずなのだがそんな標識はまったく見当たらなかった。不安になってくる。
峠発13:23発の電車に乗らなければ仙台に帰ることはできない。
「いま板谷に戻れば列車に余裕で乗れる。」という考えが頭を横切りさらには「所詮思いつきの計画だったんだ。」というマイナスの考えも出てきてしまった。
なにしろ下の写真のような道で車も通らない道なのだ。
誰もが不安になるだろう。ついに私の歩みが止ってしまった。
しかも民家も無いから道の確認もできない。
しかし、ここで戻ったら峠のレポートがかけない上、私の中でのポリシーが許さない。
ここで止まっていても始まらない。
さらに私は進んだ。さらに20分…やっと交差点にでた。
そこで標識を見つけ、私が峠駅に向かっていることが分かると、急に歩みが速くなった。
しかし、県道から市道へのランクダウンは大きかった。
道に急にひび割れや、修理した跡が目立ち始め、さらに悪路になっていく。
「それでもここまで来てしまったら戻れない。」と言い聞かせつつ歩いていった。
しかし、さすが板谷峠だけある。たまに見える風景がとてもきれいだ。
その風景で多少の気力をもらいつつ歩き続ける。
するとどうしたことか急に坂が上り坂から下り坂にかわった。
そう、ついに登りきったのだ。
まだ峠駅まで到達してないものの、大きな達成感が私を包む「あと少し…」そんな思いを励みに歩き続けた。
しかし、降りているものの、道はいっそうひどくなり、歩きにくくなる。
その瞬間だった。遠くの方で電車の音がした。
そう、奥羽本線を走る新幹線の音だったのだ。私は一本道を走った。
右にカーブすると景色が開けた。下の方にスノーシェルターが見えた。
そう、峠駅まで歩いたのだ。今までの疲れがどっと出てきた。
しばらく、峠駅の待合室で休むことにしようと思った。
確かに板谷峠は歩けることが分かった。
しかし、とても疲れる上、時間もかかった。読者の方は車で行くことをお勧めする。
歩くとなかなか景色をゆっくり眺められていいのだが…
第六章「峠駅」
峠駅…ここがスイッチバック4駅の中で一番高いところに位置する。
峠駅のスノーシェルターは今でも健在だが、旧引込み線のほとんどは線路が撤去され駐車場として活用されていた。
めったに車が来ない峠駅なのだからレールぐらい残っていてもいいのではないか…
一つただ残っているポイント部分が無残な姿で置いてあった。
駐車場とは言っても砂利な上だた線路を撤去しただけなので一様まだ標識や信号は残っていた。
しかし、信号機は雨風にさらされ、さびが激しかった。
しかも片方の信号機は折れ曲がり、ひどい状態だった。
しかし、残ってないのは駅周辺だけで100mも進むと旧駅舎や旧ホームなどがとてもいい状態で残っていた。
そこは退避用のトンネルが残っていた。
しかし私はそんなトンネルに入るような装備は持ってない。
懐中電灯すらないのだ。
トンネルの前まで来ると多少の光が入ってきていることが分かった。
意を決して入ってみると意外と大きく、真っ暗になるほどではなかった。
しかし、月明かりより暗い。なかなか進むスピードが上がらない。
もともと、退避用のトンネルなので端があるはずだ。
50mも無いトンネルを10分近くもかかってしまった。
しかし、それにしても車止めが現役のようにいい状態だった。
カメラで撮影して電源を切ろうとしたときだった。
ピピピピ・・と電子音がなった。カメラの電池が無くなってしまった。
戻るのはとても簡単だった。光に向かって歩けばいいのだから……
そのあと私は旧線を散策した。まず驚いたのが標識が残っていること。
トンネルを出てすぐ気が付いたのだがしっかり「10」と書かれた標識があった。
停車位置の標識ではないことは確かだった。
ホームの長さでは6両が限界だろうし、実際、10両の旅客電車が通った記録もない。
なにか分からないがまあしょうがない。愛用のパソコンももちろん持ってない。
まあ後々調べることにしよう・・・・そんな思いでまた散策を始めた。
しかし、板谷のように駅名表示は錆びてまったく読めないような状態だった。
レールも板谷より状態が悪かった。やはり有名なのだろう。
いろいろな人が訪れ、レールの上を歩いていたのだろう。
それだけ、峠駅が有名なことを静かに語っていた。
どこかで踏み切り特有の音が鳴った。
どこでなっているのかはよくわかなかったが、線路脇に陣取った。
カメラの電池が無かったので、どうしようもなかった。
すると400系がゆっくりと峠を越えていった。
リュックサックの非常用ポケットを探ると電池が4つぽろぽろ出てきた。
そう前日、非常用に入れておいたのだ。
すぐさま電池を交換した。
そろそろ昼食が食べたくなったので、峠駅の待合室に行き、家から持ってきた
おにぎりを4つ食べた。
また新幹線が力強くゆっくり踏み固めるようにして走っていった。
そのときだった。後ろの方から声が聞こえた。
「あの…道を一人で歩いていた人ですよね?」大人の声だった。
振り向くと家族ずれが私を見ていた。
「はい…」肯いてみたものの、何がなんだか分からなかった。
詳しく話を聞くと、私が峠道を歩いてるとき、それ違った車に乗っていたとのことだった。
「最初は何をしている人かな〜と思ったんですよ」と話してくれた。
話は盛り上がりいつの間にか1時間たっていた。ついに峠駅に私が乗る電車が入線してきた。
私が電車に乗るとその家族は手を振って見送ってくれた。
これもこの旅行でのいい思い出になるだろう。
もしかしたらこの家族とは一生会えないかもしれない。
そんな思いを乗せて電車は米沢に向かって走り出した。
第七章「帰路」
乗ると友人のT氏が待っていた。
そう5;00に出る事ができなかったT氏が私に追いついてきたのだ。
私はT氏とうまく会えたことにひとまず安心した。
まず、T氏は私のズボンがどろどろになってることに驚いていた。
ここだけの話、私は峠で降りるはずだったのだ。
それなのに私は前日勝手に予定を変えていたのだ。
私が板谷で勝手に降り、峠を歩いてきた。
といったら相当おどろかれた。
そして勝手な行動をするなといわれてしまった。
でも私はとてもいい旅行になったなと思った。
しかし、まだ旅は終わってないのだ。
これからの帰路を思う存分楽しみたいと思う。
乗車した電車は719系だった。
やはり標準軌のため乗り心地はよかった。
体に分かるぐらいの勾配だ。
この峠は40‰もあるところがあるそうだ。
しかし、結構早いもので30分程度で田んぼが見えてきた。
気づくのが遅かったが、この乗客はほとんどが観光客だ。
しばらくして米沢に着いた。
ここで乗り換えになるのだが、米沢の構内にはキハ28が体を休めていた。
数枚スナップを取ってから私は山形行きの701系に乗り込んだ。
数分のときを経て電車はVVVFインバータの音を響かせ米沢をでた。
そこからはゆっくりと畑や果樹園の合間を縫うようにしてすすんだ。
途中新幹線などとそれ違った。
私が作った新幹線予想離合時刻が外れてしまったところがこの旅行の心残りだ。
しかし、電車に遅れも無くT氏としゃべっているといつの間にか、蔵王だった。
今度は忙しく仙山線乗り換えの準備をする。
いつの間にか山形を告げる車内放送のもなり乗客も下車準備をする。
ついに山形に着いた。
もう仙山線のE721系が発車のときを待っていた。
私たちは特にやることも無いので車内のボックスシートに乗り込んだ。
するとなぜか電車は山寺を出たところだった。そう私は寝ていたのだ。
しかし、E721系のボックスシートは頭の部分がとても硬くそれ以上寝れなかった。
T氏と今回の旅を振り返っているとやっと仙台の町並みが見えてきた。
私はやっと帰ってきたのだとやっと思った。
私はT氏と駅でわかれ家への帰路を歩いていった。
第八章「回想」
今日は4:00近くに起きて仙台6:04発の電車に乗った。
その後、私は板谷駅まで行った。
その後私はまだ残っている駅舎に事にとても驚いた。
その後私は板谷峠を1時間歩き峠駅まで行った。
峠駅では駅舎も残っていてこちらも驚いた。
退避用だがトンネルもあることに感動した。
振り返るといろいろなことがあった。
しかし、今、私の頭をいっぱいにしていることはそう、この4段スイッチバック跡がいつまで残っているか?ということだった。
いつまでも後世につえられるよう、いつまでも残っていてほしい。
そんなことを胸に私は眠りに付いた。
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